この地には古くから、神部神社と大歳御祖神社が祀られていた。
延喜元年(901年)醍醐天皇の勅願により、富士山本宮から勧請され、富士宮浅間神社の分霊を遷して、「富士新宮」と呼ばれてきたものであるが、何時の間にかこの浅間神社が、賤磯山神域全体の代名詞となったものである。
駿府は、もともと今川氏の所領であったが、徳川氏が天下を取った後、慶長12年 (1607年)家康公がこの地に隠居し、駿府城の造営と’町割りの編成に着手し「駿府96ヶ町」を完成させたが、静岡浅間神社への信仰厚く、数々の保護援助を代々行っていたという。
明治雑新により、徳川幕府の保謹が受けられなくなり、稚児舞楽は廃止を余儀なくされていたが、明治27年廃止されていた建穂寺(たきょうじ)の稚児舞が復興され、この時から太埼暦の今月1日から5日までの5日間の祭となり、同時に建穂寺の雅見舞から静岡浅間神社稚児舞へと変化したのである。
然し「廿日会祭」の名称はそのまま今日に継承されてきている。
静岡浅間神社の例大祭[=廿日会祭 ( はつかえさい ) ]は、毎年4月1日より5日まで桜花爛漫の中、各種神振行事とともに繰り広げられます。
中でも5日の例祭には、静岡県指定民俗文化財で徳川家康公ゆかりの「 稚児舞楽( ちごぶがく ) 」を奏することで知られ、市中には町衆は踟 ( ねり ) と呼ばれる山車屋台を繰り出し、祭礼期間中約40万人の人出で賑わいます。
廿日会祭は、旧暦2月20日に行われていた「お会式」が起源で、江戸時代まで神仏両部で祭事が営まれていましたが、明治の神仏分離により、廿日会祭と名称が変更され、祭日も新暦の4月5日と改められました。
この稚児には幕臣の子弟が選ばれ、当日は年行事 ( 一年間の祭礼行事を司る役 ) が建穂の村に出向き、稚児に七度半のお出ましをたてたといわれ、稚児一行が浅間神社へ向かう行列は10万石の格式が与えられました。
また、安西川原 ( 現在の安西五丁目 ) で 一行を出迎え、稚児を慰める木遣や面踊りなどを披露しました。
明治維新に際して、建穂寺が廃寺となったため、建穂からの行列は行われなくなり現在は、市内中心部の 小梳神社 ( おぐしじんじゃ ) と別雷神社 ( いかづちじんじゃ ) を毎年交互に出発し約2キロの道のりを、稚児の乗る輿を中心に山車屋台を従えて、総勢1000名にも及ぶ大行列となって浅間神社まで参ります。
神社に到着すると、稚児の前で木遣やお囃子、面踊りなどが披露され、午後3時半ごろから舞殿において、愛らしくそして優雅な稚児舞楽が奏でられます。