静岡浅間神社の廿日会祭は、神社と氏子という周辺坤区の人々の間で、しめやかに行われていたものであるが、徳川家康公が職府に隠居所を構えてから、たまたま服織村の建穂寺(たきょうじ)を訪れた時、演舞された稚児舞をいたく気に入り、駿府の町奉行彦坂九兵衛に命じて、この稚児舞を静岡浅間神社の廿日会祭に招んで、舞殿において「稚児舞楽」を奉納することとした。
駿府の町奉行彦坂九兵衛は大御所公の肝入りということで、町役人や町民に号令して山車や屋台を造らせ、安西五丁目の建穂ロ(たきょうぐち)に稚見舞一行を出迎えて労い、一緒に行列をつくって静岡浅間神社へ繰り出したのが「お踟」の始まりで、各町内がめいめいに趣向をこらして練り歩く仮装行列的なものであったのが、今の「お踟」の原点となったものである。
然し、これより以前、戦国時代の公家山科言継は、弘治3年2月22目(1557年)に、雨で延期された廿日会祭の稚児舞楽を浅間神社で見物したという記録もあるので、家康公のこの伝説は、後の世になって作られたものだともいわれている。
明治維新の動乱により、徳川奉府の保護も受けられなくなり、焼失した建穂寺の廃寺とも重なり、稚児舞も「お踟」も一時廃絶を余儀なくされたが、廿日会祭の神事は古式どおりに執り行われ、明治6年太陽暦の採用と共に、旧暦2月20日の廿日会祭を陽暦4月5日と定めた。
明治維新後、次第に時代も落ち着いてきた1894年 ( 明治27年 ) 2月、静岡市民有志達が「 静岡浅間神社復興趣意書 」 の下に集まり、寡っての廿日会祭の盛時を偲び、96ヶ町市民に復興協力を呼びかけ、古式を尊重して「お踟」を復活し、安倍川原 ( 現在の安西五丁目 ) に再びお稚児さんを出迎えて、賑わいを再興したものでこれから “ お踟はどこだ、安西五丁目 ” と威勢よく囃されるようになりました。
1915年 ( 大正4年 ) 7月5日、静岡浅間神社大拝殿に各町祭典委員長が集まり新たに 「 年行事年版・踟当番町 」 の組み合わせを( 大正25年度 〈 昭和11年度 〉 迄 )と決定し、10年一巡で繰り返し実施、「 踟 」 は東西南北より、毎年2組宛の山車踟8台を基本とし当番町以外の町・同業組合などでも、独自で屋台を曳き回すことを決めました。
1936年 ( 昭和11年 ) 秋の 「 昇祭・降祭 ( のぼりさい・くだりさい ) 」 には『 東海の日光 』 とも呼ばれた静岡浅間神社の壮麗な総漆塗り、極彩色の壮大な社殿の大改修工事竣成祝典と重なり、静岡全市を挙げての祝賀行事が繰り広げられ、山車8台をはじめ市内各町屋台の他、大工組合・左官組合・芸妓連等の趣向を凝らした屋台 ( 茶番屋台、底抜け屋台、狂言屋台等 ) 、30数台が市内を曳行し、静岡市内は祭り一色に包まれ、さすが東海一の大祭と評判を呼び、賑やかな曳き回しが夜遅くまで行われました。
この奉祝行事には、末広町の製材・合板・製茶業者等が中心となり、富士宮浅間神社の壮大豪華な山車を持ち込み、市内を練り歩き、大評判となり市民の大人気を博したものであります。
翌、1937年 ( 昭和12年 ) の静岡浅間神社廿日会祭にも、前年の祝賀行事に参加した各町内・同業組合・芸妓連等の各種団体が、30数台の山車・屋台を繰り出し 夜まで曳き回しねり歩いたもので、前回に引き続き、末広町が富士宮浅間神社の壮大豪華な山車を曳き市内を曳行しました。
1940年 ( 昭和15年 ) 1月15日の静岡大火により、この 「 お踟 」 は一時中止。引き続き、第2次世界大戦のため中断を余儀なくされ、終戦後も経済界の不安定さからしばらく行われなかったが、静岡浅間神社廿日会祭の神事と稚児舞楽は、浅間神社の神前で古式通りに斎行されてきました。
1951年 ( 昭和26年 ) に至り、第2次世界大戦で戦死された方、戦災でお亡くなりになられた方々のご冥福を祈り、その人達及びご家族の方々に、戦前の楽しい思い出を贈ると共に静岡市民の心を和らげ、戦後復興に邁進することを願い、静岡浅間神社廿日会祭の踟行事を復活させようと市内の有志が集い、再三協議の末、1952年 ( 昭和27年 ) の廿日会祭から「 お踟 」 再興が決まり、地元の馬場町・新通川越町・木花町・神栄町・本通八丁目・駒形町等が当番町を引き受け、3月31日から4月5日までの6日間、戦後初めて踟山車・屋台等の市内曳行を敢行し、夜9時頃まで練り歩き、市民の大歓迎を受け、静岡市民待望の 「 お踟 」 が見事に復活しました。
1953年 ( 昭和28年 ) 、静岡浅間神社の 「 春の大祭 」 廿日会祭の 「 踟行事 」 を静岡市民のお祭として、広く各地より観光客を誘致して、静岡市の発展を図るべく各町に 「 お踟 」 に協賛していただくよう呼びかけ、当番町制を決めて、再出発することとなり多くの役員の献身的努力により、毎年 「 お踟 」 が行われるようになりました。
(※こちらは昭和30年ごろのお踟の様子)
しかしながら、復活した 「 踟当番町制 」 も、やがて参加人員を集めにくいとか、経費がかかるなどの理由で尻つぼみとなり、1975年 ( 昭和50年 ) 頃より、どうにか学区単位で 「 お踟 」 を出してきたが、1991年 ( 平成3年 ) に至り、学区単位でも 「 お踟 」 を引き受けるところがないという憂う状況になってしまいました。
ここで、400年の伝統の 「 お踟 」 を途絶えさせることは、静岡市民の恥と考え何としてでも継承して、後世に残していかなければならない、という切迫した空気が廿日会祭協賛会全役員にみなぎり、再三に亘る協議を重ねた末、協賛会の中に 「 踟委員会 」 を設け“ 誰にでも参加できるお踟 ” として、『 見る祭より参加する祭 』 をスローガンに『 協賛会本部踟 』 を出すことを決め、静岡市民に自由参加を呼びかけたところ予想以上の関心を集め、普段当番町以外では参加できなかった遠く郊外地域からも、親子連れで参加されて盛大な 『 本部踟 』 が曳き回され、静岡市民からも大変喜ばれたそうです。
ここにおいて、先人が努力して、継承してきた貴重な静岡独自の文化遺産であり静岡最大の伝統ある 「 お踟 」 をさらに振興するため、静岡全域に拡げ、 「 お踟 」を支えてきた各町内会・各種団体が広く参加できる本来の組織へ発展的に改編し、強力に運営してゆこうということで、当時の静岡市連合町内会 ( 旧静岡市の住民自治組織 / 現在の静岡市自治会連合会 ) を中心に、協賛企業のご協力もいただき、1993年 ( 平成5年 ) 2月1日『駿府踟振興会』を設立 、静岡市連合町内会を中心に、静岡全市域に拡げ、協賛企業のご協力も頂き、各種団体 が広く参加できる本来の組織へ発展的に改編し、強力に運営してゆくことになった。
また、平成8年10月12日には、待望の豪華絢爛な新山車≪平成木花車≫が竣工し
、入魂式・お披露目運行が盛大に行われた。この山車の製作には静岡特産工業協会傘下
の各租合が、静岡地場産業技術の集大成と、匠の共同作業の熱意で完成したもので、誠
に意義深いものが感じられ、その後の「お踟」に一段と華を添えることとなった。
これらよって、『お踟』を支えてきた各町内会は「当番学区踟」として輪番復活、
定着した市民自由参加による『駿府本部踟』『本部伝馬踟』、静岡市中心商店街の『中小連踟』等と共に、毎年大勢の参加者が踟山車を曳き、お互いが競い合って市内を曳行
することができるようになった。
特に、2001年 ( 平成13年 ) 10月14日に斎行された『 静岡浅間神社御鎮座千百年祭奉祝神幸大祭 』 には、本部踟に約500名の市民参加を含め一番町・城内・青葉・伝馬町等各学区踟に、総勢3000名の市民が参加し往時の壮観な江戸絵巻を再現し、市民の大歓迎を受けました。
* 参考資料 安西学区踟振興会提供資料より